平成18年度 行政書士試験 問題5は、「純然たる意見表明ではない行為に対して、判例が採っている考え方」に関する正誤問題でした。
平成18年度の行政書士試験当時、私は、まだ大手資格学校で主幹をやっていたので、ほぼすべての解答速報には目を通していましたが、私が知る限り解答速報において、正解を3としたものは1つもありませんでした(多数説は5、少数説は2、4。ちなみに、私は、下記の補足2のように考えて2にしました)。
解答解説をしている我々自身の能力にも問題があるのでしょうが、問題自体にも不適切な点が多々あります。
まず、問題文の問い方自体が不適切です。
問題文では、「ある最高裁判所の判決の一節」として猿払事件の判決(最大判昭和49年11月6)を掲げていますが、単に、「判例が採っている考え方として誤っているもの」ということを問題にするのであれば、このような判決の一節を掲げることなく、端的に「判例が採っている考え方として誤っているものは、次の1~5のうちどれか」との問題文にするはずです。
次に、端的に「判例が採っている考え方として誤っているもの」について見ても、選択肢のすべてが、ほぼ判例それ自体の引用であり、論理的におかしいと直ちに判断することができないレベルのものです(判例を参照できるからこそ解説が書けるレベルの問題であり、現場で問題を解いていたら、まず間違うレベルです。)
さらに、選択肢4には誤植があります(後記選択肢4の解説参照)。
これに関する、財団法人行政書士試験研究センターからのコメントは出ていません。
各資格学校から、問題の不適切さが指摘されていたのですから、これについて何らかのコメントが出されるべきだと考えますが……。
では、平成18年度 行政書士試験 問題5の解答を載せておきます。
解説は、参考程度のものにとどめておいて下さい。ごめんなさい。
問題5 次の文章は、表現と行為の関係に言及した、ある最高裁判所判決の一節である。これを読み、同様に純然たる意見表明ではない各種の行為に対して、判例が採っている考え方として誤っているものは、次の1~5のうちどれか。
憲法21条の保障する表現の自由は、民主主義国家の政治的基盤をなし、国民の基本的人権のうちでもとりわけ重要なものであり、法律によってもみだりに制限することができないものである。そして、およそ政治的行為は、行動としての面をもつほかに、政治的意見の表明としての面をも有するものであるから、その限りにおいて、憲法21条による保障を受けるものであることも、明らかである。
1 国家公務員法102条1項および人事院規則によって公務員に禁止されている政治的行為も多かれ少なかれ政治的意見の表明を内包する行為であるから、もしそのような行為が国民一般に対して禁止されるのであれば、憲法違反の問題が生ずる。
2 国家公務員法102条1項および人事院規則による公務員に対する政治的行為の禁止が、憲法上許容されるか否かを判断するにあたっては、禁止の目的、この目的と禁止される政治的行為との合理的関連性、政治的行為を禁止することにより得られる利益と禁止することにより失われる利益との均衡の三点から検討することが、必要である。
3 一般人の筆記行為の自由について、それが、さまざまな意見、知識、情報に接し、これを摂取することを補助するものとしてなされる限り、憲法21条の規定の精神に照らして十分尊重に値するが、表現の自由そのものとは異なるため、その制限や禁止に対し、表現の自由の場合と同等の厳格な基準は要求されない。
4 報道機関の報道行為は、民主主義社会において、国民が国政に関与するにつき、重要な判断の資料を提供し、国民の「知る権利」に奉仕するものであるから、思想の表明の自由とならんで、事実の報道の自由は、表現の自由を想定した憲法21条の保障のもとにある。
5 報道機関の報道が正しい内容をもつためには、報道のための取材行為も、憲法21条の規定の精神に照らし、十分尊重に値するから、報道の公共性や取材の自由への配慮から、司法記者クラブ所属の報道機関の記者に対してのみ法廷においてメモを取ることを許可することも、合理性を欠く措置とはいえない。
問題5 正解 3
1 正しい
判例 (最大判昭和49年11月6日―猿払事件) は、「憲法21条の保障する表現の自由は、民主主義国家の政治的基盤をなし、国民の基本的人権のうちでもとりわけ重要なものであり、法律によつてもみだりに制限することができないものである。そして、およそ政治的行為は、行動としての面をもつほかに、政治的意見の表明としての面をも有するものであるから、その限りにおいて、憲法21条による保障を受けるものであることも、明らかである。国家公務員法102条1項及び人事院規則によつて公務員に禁止されている政治的行為も多かれ少なかれ政治的意見の表明を内包する行為であるから、もしそのような行為が国民一般に対して禁止されるのであれば、憲法違反の問題が生ずることはいうまでもない。」と判示している。
2 正しい
判例 (最大判昭和49年11月6日―猿払事件) は、「国家公務員法102条1項及び人事院規則による公務員に対する政治的行為の禁止が右の合理的で必要やむをえない限度にとどまるものか否かを判断するにあたつては、禁止の目的、この目的と禁止される政治的行為との関連性、政治的行為を禁止することにより得られる利益と禁止することにより失われる利益との均衡の三点から検討することが必要である。」と判示している。
3 誤り
判例 (最大判平成1年3月8日―レペタ事件) は、「憲法21条1項の規定は、表現の自由を保障している。そうして、各人が自由にさまざまな意見、知識、情報に接し、これを摂取する機会をもつことは、その者が個人として自己の思想及び人格を形成、発展させ、社会生活の中にこれを反映させていく上において欠くことのできないものであり、民主主義社会における思想及び情報の自由な伝達、交流の確保という基本的原理を真に実効あるものたらしめるためにも必要であつて、このような情報等に接し、これを摂取する自由は、右規定の趣旨、目的から、いわばその派生原理として当然に導かれるところである (最高裁判所昭和58年6月22日大法廷判決参照)。市民的及び政治的権利に関する国際規約19条2項の規定も、同様の趣旨にほかならない。筆記行為は、一般的には人の生活活動の一つであり、生活のさまざまな場面において行われ、極めて広い範囲に及んでいるから、そのすべてが憲法の保障する自由に関係するものということはできないが、さまざまな意見、知識、情報に接し、これを摂取することを補助するものとしてなされる限り、筆記行為の自由は、憲法21条1項の規定の精神に照らして尊重されるべきであるといわなければならない。」と判示している。このように、本判例は、筆記行為全般について、それが、さまざまな意見、知識、情報に接し、これを摂取することを補助するものとしてなされる限り、憲法21条の規定の精神に照らして十分尊重に値するとしているのであって、一般人の筆記行為に限っているわけではない。したがって、本選択肢前段の「一般人の筆記行為の自由について、それが、さまざまな意見、知識、情報に接し、これを摂取することを補助するものとしてなされる限り、憲法21条の規定の精神に照らして十分尊重に値する」との記述は誤りである。
なお、本判例はこれに続けて、「もつとも、情報等の摂取を補助するためにする筆記行為の自由といえども、他者の人権と衝突する場合にはそれとの調整を図る上において、又はこれに優越する公共の利益が存在する場合にはそれを確保する必要から、一定の合理的制限を受けることがあることはやむを得ないところである。しかも、右の筆記行為の自由は、憲法21条1項の規定によつて直接保障されている表現の自由そのものとは異なるものであるから、その制限又は禁止には、表現の自由に制約を加える場合に一般に必要とされる厳格な基準が要求されるものではないというべきである。」と判示している。
4 正しい
判例 (最大決昭和44年11月26日―博多駅テレビフィルム提出命令事件) は、「報道機関の報道は、民主主義社会において、国民が国政に関与するにつき、重要な判断の資料を提供し、国民の『知る権利』に奉仕するものである。したがつて、思想の表明の自由とならんで、事実の報道の自由は、表現の自由を規定した憲法21条の保障のもとにあることはいうまでもない。また、このような報道機関の報道が正しい内容をもつためには、報道の自由とともに、報道のための取材の自由も、憲法21条の精神に照らし、十分尊重に値いするものといわなければならない。」と判示している。
■ なお、本選択肢は、「表現の自由を想定した憲法21条の保障のもとにある」としており、これは「表現の自由を『規』定した憲法21条の保障のもとにある」の誤りであると考えるが、これは単なる誤植の類であり、これをもって本選択肢の内容は、判例の採っている考え方として誤っていると判断するのは不適切であろう。
5 正しい
判例 (最大判平成1年3月8日―レペタ事件) は、「憲法14条1項の規定は、各人に対し絶対的な平等を保障したものではなく、合理的理由なくして差別することを禁止する趣旨であつて、それぞれの事実上の差異に相応して法的取扱いを区別することは、その区別が合理性を有する限り、何ら右規定に違反するものではないと解すべきである (最高裁判所昭和60年3月27日大法廷判決) とともに、報道機関の報道は、民主主義社会において、国民が国政に関与するにつき、重要な判断の資料を提供するものであつて、事実の報道の自由は、表現の自由を定めた憲法21条1項の規定の保障の下にあることはいうまでもなく、このような報道機関の報道が正しい内容をもつためには、報道のための取材の自由も、憲法21条の規定の精神に照らし、十分尊重に値するものである (最高裁判所昭和44年11月26日大法廷決定)。そうであつてみれば、以上の趣旨が法廷警察権の行使に当たつて配慮されることがあつても、裁判の報道の重要性に照らせば当然であり、報道の公共性、ひいては報道のための取材の自由に対する配慮に基づき、司法記者クラブ所属の報道機関の記者に対してのみ法廷においてメモを取ることを許可することも、合理性を欠く措置ということはできないというべきである。」と判示している。
補足1 (「判例が採っている考え方として誤っているもの」とそのまま解釈した場合においても、なお疑問に残る点)
選択肢5は、「報道機関の報道が正しい内容をもつためには、報道のための取材行為も、憲法21条の規定の精神に照らし、十分尊重に値する」『から』「、報道の公共性や取材の自由への配慮から、司法記者クラブ所属の報道機関の記者に対してのみ法廷においてメモを取ることを許可することも、合理性を欠く措置とはいえない。」との帰結を導いている。
しかし、判例 (最大判平成1年3月8日―レペタ事件) は、「報道の公共性や取材の自由への配慮から、司法記者クラブ所属の報道機関の記者に対してのみ法廷においてメモを取ることを許可することも、合理性を欠く措置とはいえない」という選択肢の後半部分は、「報道機関の報道は、民主主義社会において、国民が国政に関与するにつき、重要な判断の資料を提供するものであつて、事実の報道の自由は、表現の自由を定めた憲法21条1項の規定の保障の下にあることはいうまでもなく、このような報道機関の報道が正しい内容をもつためには、報道のための取材の自由も、憲法21条の規定の精神に照らし、十分尊重に値するものである (最高裁判所昭和44年11月26日大法廷決定)」という規範定立部分に対する当てはめであるだけでなく、「憲法14条1項の規定は、各人に対し絶対的な平等を保障したものではなく、合理的理由なくして差別することを禁止する趣旨であつて、それぞれの事実上の差異に相応して法的取扱いを区別することは、その区別が合理性を有する限り、何ら右規定に違反するものではないと解すべきである (最高裁判所昭和60年3月27日大法廷判決) 」という規範定立部分に対する当てはめでもある。このように、本判決は、「報道機関の報道が正しい内容をもつためには、報道のための取材行為も、憲法21条の規定の精神に照らし、十分に尊重に値する」から、「報道の公共性や取材の自由への配慮から、司法記者クラブ所属の報道機関の記者に対してのみ法廷においてメモを取ることを許可することも、合理性を欠く措置とはいえない」との論理を採っていない。したがって、本選択肢は、判例が採っている考え方として誤りとなる。
補足2 (問題の文意から、本問において問題としようとしているのは「同様に純然たる意見表明ではない各種の行為に対して、冒頭に掲げる判例が採っている考え方と異なっているものは、次の1~5のうちどれか」という点ではないかと勝手に解釈した場合における解説例)
問題文では、「ある最高裁判所の判決の一節」として猿払事件の判決(最大判昭49・11・6、上記選択肢1参照)を掲げている。
単に、「判例が採っている考え方として誤っているもの」ということを問題にするのであれば、このような判決の一節を掲げることなく、端的に「判例が採っている考え方として誤っているものは、次の1~5のうちどれか」との問題文にするはずである。
そこで、この問題文の文意を尊重すれば、「同様に純然たる意見表明ではない各種の行為に対して、判例が採っている考え方として誤っているものはどれか」という問題文は、「同様に純然たる意見表明ではない各種の行為に対して、冒頭に掲げる判例が採っている考え方と異なっているものは、次の1~5のうちどれか」と読むべきではないかと考えることができる。
このように考えた場合、冒頭に掲げられた判例の一節は、「純然たる意見表明ではない行為が憲法21条に規定されている表現の自由により保障されるか」を問題とする場面であり、これと同様の論点を問題とするのは、選択肢1、3、4及び5である。これに対して、選択肢2は、純然たる意見表明ではない行為が憲法21条に規定されている表現の自由により保障される (または憲法21条1項の規定の精神に照らして尊重される) ことを前提として、その制限に関する違憲審査基準の問題であるから、冒頭に掲げる判例が採っている考え方と異なることになる。したがって、正解は2になる。
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